LOGIN午前七時二十六分。
ヴァレンタイン・タワーの前に立った私は、昨夜ほとんど眠れなかったことを少しだけ後悔していた。
四十階を優に超えるガラス張りの高層ビルは、朝の薄い光を冷たく反射している。正面玄関では黒いスーツ姿の警備員が行き交う社員のIDを確認し、その向こうでは巨大な企業ロゴが壁一面を占領していた。
VALENTINE GROUP。
十二年前、新聞紙面で嫌というほど見た名前だった。
父が横領犯として報じられた記事にも、警察の捜査について書かれた記事にも、この社名があった。
それが今は、私の頭上に銀色の文字で輝いている。
「帰るなら、今ですよ」
隣に立っていた女性が言った。
私より十歳ほど年上の弁護士、マーガレット・コールは、片手にコーヒーカップを持ちながらタワーを見上げている。昨夜十一時過ぎに電話したにもかかわらず、彼女は事情を聞き終えるまで一度も電話を切ろうとしなかった。
もっとも、事情をすべて話したわけではない。
父の事件とヴァレンタイン家の関係については、まだ伏せている。
彼女に伝えたのは、婚約が破談になったこと、世界的大企業のCEOから一年限定の契約結婚を持ちかけられたこと、報酬が一千万ドルだということだけだ。
それだけでも十分すぎるほど異常だったらしく、電話の向こうで三十秒ほど完全な沈黙が続いた。
「帰ったほうがいいと思います?」
私が尋ねると、マーガレットは紙カップの蓋を開け、湯気の立つコーヒーを一口飲んだ。
「弁護士として答えるなら、契約書を見るまでは帰る必要はありません。友人として答えるなら、昨日婚約者の浮気を知った人間が翌朝別の男との結婚契約を検討している時点で、少なくとも一週間は人生の大きな決断を禁止したいところです」
「だから連れてきたんですよ。私が変な判断をしないように」
「私の料金を払ってまで理性を外注するようになったのなら、まだ大丈夫そうですね」
マーガレットは淡々としているが、昨夜から明らかに私を心配している。
付き合いは六年ほどになる。仕事上の案件で知り合い、その後は企業調査の法的手続きで何度も協力してきた。私よりずっと慎重で、権力者を恐れないかわりに、権力者を甘く見ることもしない。
今日の相手には最適だった。
「それより、ダニエルから連絡は?」
私はバッグの中の携帯電話へ意識を向けた。
「夜中に三回。朝に二回です。出ていません」
「例のメッセージは保存しました?」
「はい」
昨夜届いた最後の一文。
『ヴァレンタインに近づくつもりなのか? やめたほうがいい。あの家には関わるな』
私はスクリーンショットを取り、クラウドにも保存してある。
そのあと、
『どういう意味?』
と一度だけ返信した。
だが返事はなかった。
代わりに着信だけが何度も来た。
説明する気があるなら文章で残せばいいのに、電話だけを寄越すところが気になった。ダニエルが記録を残したくないのか、それとも単に顔を合わせて話したいだけなのか、今のところ判断はできない。
そして何より、彼がなぜヴァレンタイン家を知っているのかが分からない。
三年間付き合っていた間、ダニエルがヴァレンタイン・グループと関係しているという話を聞いた覚えはなかった。
「四万八千ドルも含めて、そちらは別に処理しましょう」
マーガレットが言った。
「婚約解消とこの契約結婚は混ぜないほうがいいです。あなた、仕事では冷静なくせに、自分のことになると一度に全部片づけようとする癖がありますから」
「それ、褒めています?」
「いいえ。欠点を指摘しています」
「昨日から欠点ばかり指摘されている気がします」
「婚約者と弁護士から同じ日に性格改善を勧められるのは、なかなかできない経験ですよ」
思わず笑った。
昨夜ホテルを出てから初めて、自然に出た笑いだった。
そのあと少しだけ胸が痛んだ。
ダニエルと別れたことを悲しんでいる自分と、もう笑えている自分が同時に存在している。それが薄情なのかどうか、自分でもよく分からない。
けれど人間の感情とは、悲しい出来事が起きたから一日中同じ顔をしていなければならないほど単純ではないのだろう。
私は時計を確認した。
「行きましょう。七時半です」
「エイドリアン・ヴァレンタインとの結婚話に遅刻して破談になったら、そのほうが安全かもしれませんけどね」
「その場合でも、相談料は払いますよ」
「なら安心しました」
私たちは並んでタワーへ入った。
受付で名前を告げると、予想していた以上に話が通っていた。
「ハート様、コール様、お待ちしておりました」
受付係の女性は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
一瞬、妙な気分になる。
昨日まで、私はヴァレンタイン・グループにとって存在すら知られていない一人の会計士だった。
それが十二時間も経たないうちに、CEO専用エレベーターへ案内されている。
人生の変化には、もう少し助走があるものだと思っていた。
「最上階まで直通となっております」
扉が閉まる。
エレベーターはほとんど揺れを感じさせないまま上昇を始めた。
マーガレットが数字の増えていく表示を見ながら言った。
「今さらですけど、一千万ドルって聞き間違いじゃないんですよね?」
「私も二回確認しました」
「一年で?」
「一年で」
「あなた、昨夜それを断ったんですか?」
「まだ正式には」
「安心しました。もし即答で断っていたら、今日は弁護士ではなく医者を連れてきたところです」
「受けるとも言ってませんよ」
「もちろん。でも一千万ドルの契約なら、まず書類を読むのが文明人というものです」
マーガレットがいるだけで、現実感が少し戻る。
そう思ったところで扉が開いた。
最上階は想像していたような派手さがなかった。
大理石や金色の装飾で富を見せつけるような空間ではなく、木材とガラスを基調にした静かなフロアで、窓の向こうには朝の街が広がっている。
そこに、一人の男性が待っていた。
「エレナ・ハート様ですね」
四十代くらいだろうか。細身で、濃紺のスーツを隙なく着こなしている。
「エイドリアン様の秘書を務めております、マーカス・リードです」
昨夜、私の身元を数分で調べた秘書。
たぶん、この人だ。
「もしかして、昨夜私を調べた方ですか?」
挨拶より先に尋ねると、マーカスは一瞬だけ表情を止めた。
それから、極めて仕事のできる人間らしい笑顔を浮かべる。
「最低限の公開情報を確認しただけでございます」
「犯罪歴と債務状況まで最低限に入るんですね」
「エイドリアン様にとっては」
「あなたも大変そうですね」
初めて、マーカスの笑顔に人間味が混じった。
「その言葉はありがたく頂戴いたします」
マーガレットが小声で私に言った。
「あなた、まだ契約もしてないのにCEOの秘書を味方につけようとしてません?」
「同情しただけです」
「それを味方につけると言うんですよ」
聞こえていたのか、マーカスは咳払いを一つしてから会議室の扉を開けた。
中にはすでに三人がいた。
窓際に立つエイドリアン。
そして、大きなテーブルの片側に男女二人の弁護士。
昨日と同じ黒系のスーツを着たエイドリアンは、こちらを見ると腕時計へ一度だけ目をやった。
「七時二十九分だ」
「時間通りでしょう」
「一分早い」
「褒めても何も出ませんよ」
「事実を言っただけだ」
昨夜と変わらない。
そのことに、なぜか少し安心した。
一晩寝たら突然親切な男になっていたら、そのほうが警戒しただろう。
エイドリアンはマーガレットへ目を向けた。
「あなたが彼女の弁護士か」
「マーガレット・コールです。本日はハートさんの代理人として契約内容を確認します。先に申し上げておきますが、時間がないことを理由に署名を急がせるのであれば、この場で帰ります」
「構わない。彼女にも昨夜伝えた。双方が納得しなければ契約は成立させない」
マーガレットが私を一瞬見た。
目だけで、「その点はまとも」と言っている。
エイドリアン側の弁護士も自己紹介し、資料が配られた。
分厚い。
私は目の前に置かれた契約書を見て、思わず言った。
「一年結婚するだけで、これ全部ですか?」
「四十八ページです」
男性弁護士が答えた。
「別紙を含めれば六十二ページですが」
「増えましたね」
「婚姻契約、秘密保持、資産分離、報酬、対外的活動、居住条件、契約終了時の処理が含まれています」
マーガレットはすでにページをめくり始めている。
私は向かい側に座ったエイドリアンを見た。
「あなた、本当に結婚するつもりだったんですね」
「何のために朝七時半から弁護士を二人呼んだと思っている」
「億万長者の暇つぶしかと」
「私は暇ではない」
「でしょうね。だから結婚相手まで昨夜決めようとしたんでしょう」
女性弁護士がわずかに口元を緩めた。
エイドリアンは気づいたらしく、そちらを一度見たが何も言わなかった。
会議はそこから二時間近く続いた。
最初に私が想像していたより、契約内容はずっと現実的だった。
婚姻期間は一年。
ただし、双方が合意した場合は延長できる。
生活拠点はエイドリアンが所有する市内の邸宅。私専用の寝室と執務室が用意され、本人の許可なくエイドリアンが入ることはできない。
私の仕事は継続可能。
ヴァレンタイン・グループへの就職義務もない。
夫婦として出席を求められる公式行事は、原則として月六回以内。ただし緊急時は協議する。
互いの個人資産は完全に分離。
婚姻期間中に発生した私の仕事上の所得について、エイドリアン側は一切権利を主張しない。
契約報酬は一千万ドル。
半額を婚姻成立時、残り半額を一年後に支払う。
「ここ、変えてください」
私は指を置いた。
「離婚成立時ではなく、契約期間満了時にしてください」
男性弁護士が首を傾げる。
「理由を伺っても?」
「離婚手続きにどちらかが協力しなかった場合、報酬が人質になります。一年間役割を果たしたなら、その時点で契約上の報酬を受け取れるようにしたいです」
エイドリアンが言った。
「認める」
「それと、公式行事の定義が曖昧です。あなたの一族との私的な食事まで含めるなら、事実上回数制限がなくなる」
「では、一族の私的行事も月六回の上限に含める」
「緊急時という文言も嫌です。あなたが緊急だと言えば全部緊急になるでしょう」
「私を何だと思っている?」
「昨夜会ったばかりの契約結婚相手です。信用の残高はほぼゼロですよ」
女性弁護士がとうとう笑いをこらえきれず、咳払いで誤魔化した。
マーガレットは無表情のまま契約書を読み続けているが、ペンを持つ指がわずかに震えていた。
たぶん笑っている。
エイドリアンだけが平然としていた。
「なら、緊急時は双方の同意が必要と書けばいい」
「それなら結構です」
「ほかには?」
「あります」
私はさらにページをめくった。
「私生活への不干渉。ここはもう少し具体的にしてください。携帯電話、私信、仕事上のファイル、銀行口座へのアクセスは禁止。位置情報の追跡も本人の同意なしにはしない」
「身辺警護上、位置確認が必要な場合がある」
「では、その場合は警備担当だけが確認できるようにしてください。あなたが好きなときに私の居場所を確認できる契約にはしません」
「構わない」
意外なほど、彼は譲った。
昨日の印象だけなら、自分の言うことを相手に飲ませるタイプだと思っていた。
だが実際には、合理的な理由を示せば修正を受け入れる。
支配的というより、効率を優先する人なのかもしれない。
もちろん、一日で人物評価を決めるほど私は素直ではない。
「恋愛関係については?」
マーガレットが別の条項を指した。
私は契約書を覗き込む。
そこには、婚姻期間中に第三者と公に恋愛関係を持ち、夫婦としての信頼性を損なう行為を禁じる旨が書かれていた。
「公に、というのは?」
マーガレットが尋ねる。
エイドリアン側の弁護士が答えた。
「交際報道につながるような行動です」
私はエイドリアンを見た。
「つまり、浮気しないでくださいという意味ですか?」
「契約期間中はな」
「昨日浮気現場を見たばかりの人間に、その条項を説明するのはなかなかですね」
「だから問題ないと思った」
「あなたは慰め方を学んだほうがいい」
「慰める必要があるのか?」
「今ので必要ないと確信しました」
マーガレットが私の腕を軽く叩いた。
「喧嘩は結婚してからにしてください。まだ契約前です」
会議室に、ほんの少しだけ空気の緩む瞬間が生まれた。
昨日の夜には考えもしなかった。
エイドリアン・ヴァレンタインと同じテーブルに座り、結婚後の携帯電話のプライバシーについて真剣に交渉している。
けれど、話が具体的になるほど、私の中では別の問題が大きくなっていた。
父のこと。
私がここへ来た本当の理由。
これを隠したまま契約を結ぶことはできる。
むしろ、そのほうが父の事件を調べるには都合がいいだろう。
だが私は、十二年前に家族が「知らないところで何かを決められる」という恐怖を経験した。
それなのに、自分が同じように相手へ重要な目的を隠したまま契約を結ぶことには抵抗があった。
全部を話す必要はない。
父の名前も、まだ出さなくていい。
それでも最低限、こちらにも条件があることだけは明確にするべきだ。
マーガレットが最後のページまで確認し、顔を上げた。
「致命的な問題はありません。ただし修正案は十七項目です。今日中の婚姻成立を求めるのであれば、そちらの弁護士とすぐに詰めます」
「明日の正午まででいい」
エイドリアンが答えた。
「エレナ」
「はい」
「あなた自身の条件は?」
私は彼を見た。
いよいよ来た。
昨夜から何度も考えた。
一千万ドル。
普通なら、それだけで人生が変わる。
家を買える。
母を安心させられる。
自分の事務所を立ち上げることもできる。
老後まで働かなくて済む可能性さえある。
けれど私が欲しいものは、それではない。
正確には、金より欲しいものがある。
私は契約書を閉じた。
「一千万ドルはいりません」
会議室が静かになった。
最初に反応したのはマーガレットだった。
「エレナ?」
私へ向けられた声には、今朝まで一度も聞かなかった本気の動揺があった。
「ちょっと待ってください。あなた、今まで私に一千万ドルを受け取る前提でこの契約を確認させていましたよね?」
「すみません。そこは話すタイミングを迷っていました」
「迷うところじゃありません。弁護士に一番先に言うところです」
「後で怒ってください」
「今もう怒っています」
マーガレットには申し訳なかった。
だがエイドリアンは彼女とは違う反応をした。
驚きこそしたようだが、すぐにその表情を消し、椅子の背から身体を起こした。
「金はいらない?」
「はい」
「では何が欲しい」
その問いには迷わなかった。
「情報です」
エイドリアンの目から、わずかに温度が消えた。
さっきまでの契約交渉とは違う。
CEOとしての顔になった。
「具体的に言え」
「ヴァレンタイン・グループの過去の会計資料へのアクセス権をください」
隣で、マーガレットの手が止まった。
エイドリアン側の弁護士二人も互いに顔を見合わせる。
予想していた反応だった。
私は続けた。
「無制限に機密情報を持ち出したいと言っているわけではありません。私の専門は企業不正調査ですから、情報管理の重要性くらい理解しています。閲覧場所を限定しても構いませんし、秘密保持契約にも署名します。複製禁止、外部持ち出し禁止でもいい。ただし、過去の帳簿、監査資料、送金承認記録、関連会社間取引を閲覧できる権利が欲しい」
エイドリアンは黙って聞いていた。
その沈黙が、昨夜ホテルで見たものとは違う。
今、彼は私を値踏みしている。
いや。
警戒している。
当然だ。
「対象期間は?」
彼が尋ねた。
私は答えた。
「過去二十年」
マーガレットが横から私を見る。
父の事件が十二年前であることを、彼女は知っている。
その瞬間、彼女にも私の意図がある程度伝わったのだろう。
けれど何も言わなかった。
エイドリアンは両手を組み、テーブルの上に置いた。
「一千万ドルより、二十年分の内部資料を選ぶ理由は?」
「仕事上の興味です、と言ったら?」
「信じない」
即答だった。
「でしょうね」
「私の会社を調査したいのか?」
「調査という言葉の定義によります」
「言葉遊びをするな」
初めて、彼の声が少し低くなった。
昨夜から何度も皮肉を言い合ってきたが、これは違う。
彼は本気で警戒している。
私はそれでも目を逸らさなかった。
「あなたは昨日、私について身元を調べましたよね」
「最低限はな」
「私はフォレンジック・アカウンタントです。数字を見ることが仕事です。あなたは私に一年間、ヴァレンタイン家の一員として振る舞えと言っている。その対価として、私は自分にとって価値のあるものを求めているだけです」
「なぜヴァレンタインでなければならない」
そこだった。
これ以上踏み込まれれば、父の話をすることになる。
私は少し考えてから答えた。
「個人的な理由があります」
「それを説明できない?」
「今は」
「秘密を抱えた女と結婚しろと?」
「あなたも全部を話していますか?」
一瞬、エイドリアンの眉間に浅い皺が寄った。
私は続けた。
「祖父の遺言と叔父との経営権争いについては聞きました。でも、なぜ叔父に議決権を渡してはいけないのか、何を恐れているのか、再編計画の具体的な内容も私は知らない。あなたにも話したくないことがある。それは理解します。だから私にも、今は話せないことがあると認めてほしい」
「同列ではない」
「完全に同じだとは言っていません。でも、私だけ何も隠すなという契約なら公平ではありません」
しばらく誰も話さなかった。
窓の外では朝日が高層ビルの間から昇り、会議室の床へ細長い光を落としている。
エイドリアンはその光には目も向けなかった。
ただ私だけを見ている。
「仮に認めるとして、何を探す」
「それも今は答えられません」
「ずいぶん都合がいいな」
「あなたの一千万ドルを断ってまで要求しています。遊びではないことくらいは分かるでしょう」
その言葉が効いたのか、彼は少しだけ身体を後ろへ戻した。
確かに、普通に考えれば異常だった。
一千万ドル。
それを断って帳簿を見たいという女がいる。
疑われて当然だ。
エイドリアンは男性弁護士へ尋ねた。
「範囲を制限した閲覧権を設定できるか?」
「可能ではあります。ただし、上場子会社や第三者との契約に関する資料には別途守秘義務がありますので、すべてというわけにはいきません。個人情報、訴訟関連、現在進行中のM&A資料なども除外が必要でしょう」
「構いません」
私はすぐ答えた。
「私が必要なのは、過去の財務記録が中心です」
エイドリアンがその言葉を拾った。
「過去の、か」
しまった。
表情には出さなかった。
彼は続ける。
「現在の不正を探しているわけではない?」
「現在の資料に必要なものがあるなら見ます」
「答えになっていない」
「私の条件は伝えました」
私たちは互いに譲らず見つめ合った。
昨日は、感じの悪い男だと思った。
今もその評価は大きく変わっていない。
ただし、馬鹿ではない。
むしろ非常に鋭い。
この男の近くで父の件を調べるなら、隠し事を続けるのは簡単ではないだろう。
「十分だけ休憩を」
エイドリアンが言った。
「弁護士同士で条項を整理してくれ。マーカス、コーヒーを」
立ち上がる。
私も席を立とうとすると、彼がこちらを見た。
「エレナは残れ」
マーガレットがすぐ反応した。
「依頼人と二人きりで話す内容によっては認められません」
「契約上の交渉ではない。確認したいことがあるだけだ」
「エレナ?」
判断をこちらへ委ねる。
私は少し考えた。
「大丈夫です」
マーガレットは明らかに不満そうだったが、私の肩へ手を置いて小声で言った。
「何か約束しても、その場で署名はしないでください」
「分かっています」
「あなたの場合、『分かっています』が一番信用できないんですけどね」
それでも彼女は弁護士たちと部屋を出た。
扉が閉じる。
広い会議室に、私とエイドリアンだけが残った。
昨日のホテルバーとは違い、逃げ場が少ないように感じる。
エイドリアンは窓際へ歩いていき、街を見下ろした。
「一千万ドルを断る人間は初めて見た」
「もっと高額を断る人もいるでしょう」
「少なくとも、私の目の前ではいない」
「それは周囲にお金が好きな人が多いからでは?」
「人間はたいてい金が好きだ。あなたもそう言っていた」
「好きですよ。必要ですし。でも、一番欲しいものとは限らない」
彼は振り返った。
「あなたが一番欲しいのは、十二年以上前の情報か?」
胸の奥が強く反応した。
顔には出さない。
出したつもりはなかった。
しかし、エイドリアンの目が細くなった。
「今、反応したな」
「何のことでしょう」
「あなたは昨日、自分の感情を隠すのが上手かった。だが完璧ではない」
「あなたも人を観察する趣味をやめたほうがいいですよ」
「仕事だ」
「私はまだ社員ではありません」
「妻候補だ」
「もっと悪いですね」
冗談で流したかった。
だが彼は流さなかった。
机の上に置かれた私の経歴資料らしき紙を手に取る。
「エレナ・ハート。二十九歳。フォレンジック・アカウンタント。大学卒業後、大手監査法人へ入り、その後独立系調査事務所へ移籍。企業横領、資産隠匿、粉飾決算の調査を担当」
読み上げながら、彼がこちらを見る。
「なぜこの職業を選んだ?」
ついに来た。
私は答えなかった。
エイドリアンは紙を机へ戻した。
「単なる偶然ならそれでいい。ただ、私の会社の二十年前までの帳簿を閲覧したい人間と契約結婚するなら、理由くらい知っておきたい」
「私があなたの立場でもそう言うでしょうね」
「なら答えろ」
命令するような言い方が腹立たしい。
けれど、彼の要求そのものは正当だった。
問題は、どこまで話すか。
父の名前を出せば、この場で調べられる。
エイドリアンほどの人間なら、数分で十二年前の記事へたどり着くだろう。
それによって契約が消える可能性もある。
父を横領犯として告発した企業のCEOが、その娘に内部資料を見せる理由などない。
私はこの機会を失いたくなかった。
それでも、嘘はつきたくなかった。
だから、言える範囲だけ答えることにした。
「昔、私の家族が企業不正の事件に巻き込まれました」
エイドリアンの表情が変わる。
ごくわずかに。
「家族が?」
「はい。それ以上は、今は話せません」
「その事件にヴァレンタイン・グループが関係している?」
私は黙った。
沈黙は、ときに肯定より雄弁だ。
それを分かっていても、答えられなかった。
エイドリアンはゆっくりとこちらへ歩いてくる。
距離が縮まる。
威圧するためなのか、それとも単に私の反応を見るためなのか分からない。
「つまり、あなたは昨夜、私の名前を聞いたから態度を変えた」
「……そうです」
「最初は即座に結婚を断った。だがヴァレンタインだと知ってから条件を聞くと言った」
もう隠しようがなかった。
「そうです」
「私と結婚したいわけではない」
「あなたも私と結婚したいわけではないでしょう」
その返しには、一瞬言葉を失ったようだった。
私は続ける。
「そこを美化する必要はありません。あなたは議決権のために妻が必要で、私はあなたの会社の情報へアクセスする理由がある。互いに目的があるから契約する。それで何が悪いんです?」
「目的を隠していた」
「全部は話していません。でも、今こうしてあなたに言っています」
「私が聞いたからだ」
「そうですね。それは認めます」
言い訳をしても意味はない。
私にも打算がある。
善良な被害者の顔をする気はなかった。
「もし、それが気に入らないなら契約はやめてください。あなたには別の女性を探す時間がまだあります」
エイドリアンの顎がわずかに強張る。
「四十八時間もない」
「でも一千万ドルでしょう? 候補には困らないと思います」
「金だけで選ぶつもりなら、最初からそうしている」
「では、なぜ私なんです?」
昨夜から聞いている問いだった。
彼は何度か理由を答えた。
自立している。
感情に流されない。
一族に媚びなさそうだ。
けれど、それだけではない気がしていた。
エイドリアンは私をじっと見たあと、少し困ったような、彼には珍しい表情をした。
「分からない」
「え?」
「それを今考えている」
意外すぎる答えだった。
「合理的なあなたが?」
「合理的だから、理由が説明できない判断を好まない」
「では、やめたほうがいいですね」
「そうかもしれない」
そう言いながら、彼は契約書を手に取った。
終わったのだと思った。
さすがに、ヴァレンタイン・グループへ個人的な目的を持つ女を妻にするほど、彼も無謀ではない。
私も覚悟はしていた。
ただ、胸の奥に落胆が広がる。
父の真実へ近づけるかもしれない扉が、目の前で閉じようとしている。
けれど次にエイドリアンが言った言葉は、予想とは違った。
「アクセス権は認める」
私は彼を見た。
「本気ですか?」
「ただし条件がある」
やはりそう簡単ではない。
「何です?」
「閲覧できる資料は、法務と内部監査部門が機密区分を確認したものに限る。外部への複製、撮影、送信は禁止。閲覧記録も残す」
「それは構いません」
「そして」
彼は一歩近づいた。
「何を探しているか分かった時点で、私に話せ」
私はすぐには答えなかった。
「もし、あなた自身に関係していたら?」
その質問は、自分でも言うつもりがなかった。
だが口から出てしまった。
エイドリアンの目が鋭くなる。
「私が何かしたと思っているのか?」
「仮定の話です」
「なら答えも仮定だ。私に関係がある証拠を見つけたなら、それも含めて見せろ」
「隠さないと?」
「少なくとも、十二年前に何があったかも知らない今の私に、隠すと決める理由はない」
十二年前。
やはり彼は拾っている。
私の反応から時期まで絞り込んだ。
この男と腹の探り合いを一年続けるのは、相当疲れそうだ。
それでも私は手を差し出した。
「その条件なら、受けます」
エイドリアンは私の手を見た。
「結婚を?」
「まだです。会計資料へのアクセス条件を、です」
「慎重だな」
「昨日婚約者に浮気されたばかりなので」
彼は私の手を取った。
思ったより温かかった。
握手にそれ以上の意味などない。
そう分かっているのに、昨夜まで婚約していた男以外の男性に触れられたことを、身体のどこかが妙に意識してしまった。
私は先に手を離した。
エイドリアンは何も言わなかったが、私の反応を見たような気がして少し腹が立つ。
「報酬はどうする」
「いりません」
「ゼロでは契約の対価として不自然だ。法務上も面倒になる」
「では最低限で」
「一ドルか?」
「あなた、本当に極端ですね」
「では金額を決めろ」
少し考えた。
「私の現在の年収相当額を一年分。それ以上はいりません」
「安すぎる」
「あなたにとってはでしょう」
「私にとってだけではない。社交行事や公的役割を含めれば、通常の仕事と同じではない」
「では、それは弁護士同士で妥当な額を決めてください。ただし一千万ドルは受け取りません」
「なぜそこまで拒む」
私は少し迷ってから答えた。
「後で自分に言い訳したくないからです」
「言い訳?」
「お金のために父のことを忘れたわけではない、と」
言ってから気づいた。
父。
初めて口に出した。
エイドリアンも気づいた。
空気が変わった。
「父親が関係しているのか」
私は答えなかった。
今度の沈黙は、完全な答えになった。
エイドリアンは数秒、私を見たままだった。
それから机の端に置いてあったタブレットを手に取る。
「名前は?」
「何をするつもりです?」
「確認する」
「今は言えません」
「エレナ」
「それが契約条件なら、帰ります」
私は本気だった。
ここで父の名前まで渡せば、私が調べる前にヴァレンタイン側が情報を整理してしまう可能性がある。
エイドリアンが無関係だという保証はない。
彼はタブレットを持ったまま考え、やがて机へ戻した。
「分かった。今は聞かない」
また、意外だった。
「いいんですか?」
「私が認めた条件だ。何を探しているか分かった時点で話せ。それまでは待つ」
「あなた、思ったより話が分かりますね」
「あなたの私への評価はどれだけ低いんだ」
「昨日会ったばかりなので、底から始めています」
「その割には結婚しようとしている」
「そこはお互い様でしょう」
会議室の扉が開き、マーガレットたちが戻ってきた。
彼女は私とエイドリアンの距離を見て、少し眉を上げる。
私はすぐに席へ戻った。
「何かありました?」
「報酬条件を変更します」
私が答えると、マーガレットの顔が露骨に嫌そうになる。
「お願いですから、一千万ドルを一ドルにしたとか言わないでください」
エイドリアンが真顔で言った。
「私は提案した」
マーガレットは額へ手を当てた。
「どうして二人だけにしたんですか。もう絶対に二人で交渉させません」
初めて、会議室に明確な笑いが起きた。
エイドリアン側の女性弁護士まで笑っている。
私もつられて笑った。
エイドリアンだけは少し不満そうだった。
契約の修正作業が始まった。
そこからさらに一時間。
私の勤務時間が迫っていたため、最終文面は電子データで共有し、午後にマーガレットと再確認することになった。
席を立つ前、エイドリアンが言った。
「今日の午後六時までに最終回答が欲しい」
「分かりました」
「受けるなら、明日の午前中に法的手続きを終える」
「そんなに早く?」
「期限は正午だと言っただろう」
分かってはいたが、改めて聞くと頭がおかしくなりそうだ。
今日まで独身。
明日の昼には人妻。
しかも相手は、昨日まで一度も話したことのなかった億万長者。
人生設計という言葉が急に馬鹿らしくなる。
私は契約書をバッグへ入れた。
「一つだけ聞いてもいいですか?」
「何だ」
「もし今日、私が断ったら?」
「別の方法を探す」
「別の女性ではなく?」
少し意地悪な質問だった。
エイドリアンは一瞬考えた。
「今の時点では分からない」
また、それだ。
分からない。
何でも数字で判断しそうな男が、私のことになると時々答えを持っていない。
なぜなのか。
もちろん、恋だの運命だのという話ではない。
出会ってまだ半日だ。
ただ、この男にとって私が予定外の存在になりつつあることだけは、少し面白かった。
「では午後六時までに連絡します」
私が扉へ向かうと、背後から呼び止められた。
「エレナ」
振り返る。
エイドリアンは、さっきまで使っていたタブレットを手にしていた。
「何です?」
「あなたの父親の名前は、調べようと思えば今日中に分かる」
胸が冷える。
「脅しているんですか?」
「逆だ」
彼はタブレットを机へ伏せて置いた。
「調べないと言っている」
思わず彼の顔を見た。
「どうして?」
「あなたが自分から話すと言ったからだ」
私はそんな約束をした覚えはない。
正確には、何を探しているか分かった時点で話すという条件を受けただけだ。
それでも彼は、そこに一定の信頼を置こうとしているらしい。
昨日、私について数分で身元を調べた男が。
「……ありがとうございます」
言ってから、少し悔しくなった。
この男に感謝する日がこんなに早く来るとは思わなかった。
「礼はまだ早い」
「どういう意味です?」
「あなたが何を探しているにせよ、私の会社を使わせる以上、私も黙って見ているだけではない」
やはり甘くはない。
「監視するんですか?」
「観察すると言ってくれ」
「昨日からずっと、それをやっていますよね」
エイドリアンの口元が少し上がった。
「では慣れておけ。妻になるなら、一年は続く」
私は返事をせず、会議室を出た。
廊下を歩きながら、マーガレットが隣で深いため息をつく。
「あなたたち、まだ結婚してないんですよね?」
「してません」
「それなのに、もう十年くらい口喧嘩している夫婦みたいなんですけど」
「やめてください」
「私は弁護士なので、客観的事実を言っただけです」
エイドリアンと同じ言い方だった。
それが可笑しくて、私はまた少し笑った。
しかしエレベーターへ乗ったところで、携帯電話が震えた。
ダニエルからだった。
今度は電話ではない。
メッセージ。
『どうしても聞かないなら仕方ない。十二年前のヴァレンタイン社の横領事件を調べてみろ。お前が知っている話と、本当の話は違う』
笑いは消えた。
続けて、もう一通届く。
『それから四万八千ドルは返せない。あの金は、お前の父親の件と関係している』
呼吸が止まりそうになった。
マーガレットが私の顔を見て、声を低くする。
「エレナ、どうしました?」
私は答えず、画面を見つめた。
四万八千ドル。
父。
ヴァレンタイン。
昨夜まで、別々だと思っていたものが一本の線でつながり始めている。
そしてエレベーターの表示は静かに階数を減らしていく。
私は画面を保存すると、ようやくマーガレットへ携帯電話を差し出した。
「婚約破棄だけでは終わらないみたいです」
十二年前に終わったはずの事件が、私の知らないところで今も動いている。
その事実だけは、もう疑いようがなかった。
第26話 亡き秘書室長が残した一枚の業務メモに、父の名前がありました 証拠は逃げない。 昨日、私はそう自分に言い聞かせて仕事へ戻った。 その判断は正しかったと思う。 ただし、正しい判断をした人間が翌朝六時前に目を覚まし、まだ開示すらされていない一枚の業務メモについて考え続けることまで禁止してくれるわけではなかった。『M.C.緊急権限付与/会長確認待ち/R.H.異議』 マーティン・コール。 会長確認待ち。 リチャード・ハートの異議。 たったそれだけの記述なのに、読み方はいくつもある。 会長の確認を待ってから送金する予定だったのか。 送金そのものは別の人物が口頭で許可し、アレクサンダーの最終確認だけが後に残っていたのか。 父は何に異議を唱えたのか。資金移動そのものか、マーティンへの緊急権限付与か、それとも処理手順か。 一つの短いメモに、都合のいい意味を詰め込むのは簡単だった。 だからこそ、実物を見るまで決めてはいけない。 分かっている。 分かっているのに眠れなかった。「起きていたのか」 朝食の席へ行くと、先にいたエイドリアンが私を見て言った。「普通に起きました」「六時前から部屋の明かりがついていた」 私は椅子を引く手を止めた。「どうして知ってるんです?」「廊下を通った」「何時に?」「六時十分くらい」「その時間に私の部屋の前を?」「書斎へ行く途中だ」「本当に?」「何を疑っている」「監視」「していない」 返事が早い。 私は座りながらコーヒーへ手を伸ばした。「ヘレンさんのメモ、気になってるだけです」「知っている」「まだ中身見てないのに」「昨日から同じ顔をしている」「また顔」
第25話 十年ぶりに母が息子の家で朝食を食べました ミランダ・ヴァレンタインが、十年ぶりに息子の家へ来ることになった。 正確には、今の屋敷は十年前と同じ家ではない。 エイドリアンがCEO就任後に使い始めた邸宅で、ミランダ自身が暮らしたこともない。 それでも、彼女が朝食を一緒に食べたいと伝えてきたと聞いた瞬間、私は「家に帰ってくる」という言葉を連想した。 その言葉を口にしなかったのは、たぶん正解だったと思う。「七時半?」 前夜、書斎でマーカスから予定を聞いた私は思わず聞き返した。「はい。ミランダ様からのご希望です」「朝食だけ?」「現時点では」「現時点では、って何です」「話が長くなる可能性もございますので」 私は向かいに座っていたエイドリアンを見る。 彼は無表情だった。 無表情すぎて、逆に分かりやすい。「緊張してます?」「していない」「今の返事、速すぎました」「事実だ」「十年ぶりにお母様が来るのに?」「この前会った」「二人で、外ででしょう」「そうだ」「家に来るのは別じゃないですか」「何が違う」「全部」 私は即答した。「外の面談場所なら帰る時間を決められるし、話が重くなったら終わらせられる。でも家は生活の場所でしょう。朝食を食べるって、かなり私的です」「お前、妙に詳しいな」「一般論です」「経験は?」「家族と朝食くらい食べます」「母と十年ぶりに、という意味だ」「ありません」「なら一般論ではないな」「揚げ足取らないでください」 マーカスが話へ入るべきか迷っている顔をしている。 私は少し姿勢を戻した。「で、私も同席するんですよね」「母がそう言っ
第24話 父に三万八千ドルを送った会社は、消えた資金の通り道でした ブライトン・アドバイザリー。 その社名を、私は翌朝から何度も見ていた。 父の共同名義口座へ三万八千ドルを送った会社。 十二年前、父のユーザーIDで承認された四十二万ドルが、ホーソン・ビジネス・ソリューションズを経由して流れ込んだ会社。 そして、その四十二万ドルの取引は、父の支払承認権限が停止された三日後に、父のIDを使って処理されていた。 数字だけ並べれば、父を陥れるために誰かが不正資金の一部を父の口座へ送り込んだようにも見える。 一方で、父が以前からブライトンと関係を持ち、その会社を通して金を受け取っていたようにも見える。 都合のいい解釈なら、いくらでも作れた。 だから私は、どちらも採用しなかった。「また同じページ見てる」 向かいの席からノアが言った。「三回目?」「五回目」「数えてたの?」「午前九時から同じPDF開いたままだから」 私はモニターから顔を上げる。「仕事してください」「してるよ。君の監視も仕事の一部になりつつあるだけ」「誰から依頼されたんですか」「周囲全員?」「最悪」 今日は自分の事務所だった。 昨日の出張から戻ったあと、エイドリアンが何度も「今日は早く帰れ」と言うので、朝から会社へ来た私に対して、ノアまで似たような扱いをしている。 しかも私自身、以前ほど反発しなくなっている。 それが一番悔しい。「ブライトンの法人情報、出ました?」「今まとめてる」 ノアが画面を切り替える。「設立は十五年前。名目上は保険精算、事業継続支援、企業向け事務代行。社員数はピーク時でも二十人前後」「小さい」「その割に、十二年前の入出金だけ妙に大きい」「どのくらい」「今確認できた範囲で、九
第23話 父のIDで承認された取引は、父が会社にいない時間に処理されていました 翌朝、目が覚めて最初に考えたのは、父の十九件でもマーティン・コールでもなかった。 隣の寝室にエイドリアンがいる。 その事実だった。 目を開けたまま天井を見つめ、私は自分にがっかりした。 昨夜までは雨音のせいにできた。慣れないホテル、同じスイート、三百六十五日後の離婚という話までしたのだから、多少感傷的になるのも仕方がない。 けれど朝になって最初に確認したいことが「夫がまだ隣にいるか」なのは、少し事情が違う。 私は枕元のスマートフォンを見る。 午前六時十二分。 メッセージは来ていない。「……普通です」 誰に聞かせるでもなく言った。 同じ場所へ出張している人間が、朝も同じ場所にいる。 当たり前だ。 安心する必要はない。 私はベッドを出て、シャワーを浴び、仕事用のブラウスとパンツへ着替えた。 鏡の前で髪を整える頃には、かなりいつもの自分へ戻っていた。 少なくとも見た目は。 ◇ リビングへ出ると、エイドリアンはすでに起きていた。 窓際のテーブルでノートパソコンを開き、コーヒーを飲んでいる。「おはようございます」 彼が顔を上げる。「おはよう」 それだけだった。 それだけなのに、少し安心した。 非常に良くない。「早いですね」「いつもこの時間だ」「昨日遅かったのに?」「六時間は寝た」「短いです」「十分だ」「年を取ってから後悔しますよ」「まだ三十四だ」「もうすぐ三十五でしょう」「結婚期限を思い出させるな」「あ」 そうだった。 この結婚そのものが、三十
第22話 一泊だけの出張なのに、夫と同じ部屋しか残っていませんでした 父を横領犯にした十九件を、私はその日のうちに見なかった。 正確には、見せてもらえなかったわけではない。正式な再調査の中で、外部チームが送金元、承認端末、本人認証、取引先との関係を整理したうえで確認することになり、私もそれに従った。 以前の私なら、夜中まで資料室に残る方法を考えたかもしれない。 今は、一度屋敷へ帰って眠った。 翌朝も普通に起きた。 そして午前六時半、私はエイドリアンと一緒に空港へ向かっていた。「どうして、このタイミングで出張なんでしょうね」 車の窓からまだ薄暗い街を眺めながら言うと、隣のエイドリアンはタブレットから目を上げなかった。「三週間前から決まっていた」「その三週間で人生が変わりすぎたんです」「私もだ」「あなたの場合、自分で変えた部分がかなりありますけど」「結婚のことか」「ほかに何があるんです」「会社の内部調査も拡大した」「それは私だけの責任じゃありません」「責めていない」 言いながら、彼はタブレットを閉じた。 今日の出張先は、ヴァレンタイン財団が支援する地方医療施設と、グループが投資している再生エネルギー関連企業だった。 本来ならエイドリアン一人で出席する予定だったが、結婚発表直後という事情から「夫妻での公式訪問」へ変更された。 私にとっては月六回までと定めた共同公務の一回に当たる。「財団施設での挨拶は何分くらい?」「一時間半」「投資先は?」「二時間」「夕方の記者対応」「三十分」「それで終わり?」「ああ」「なら今日中に帰れません?」「最終便に間に合わない」「チャーター機」「使える」「では使いましょう」「使わない」
第21話 父を横領犯にした調査報告書に、同じ時刻の矛盾がありました 三か月前、ヴィクター・ヴァレンタインは父が残した例外承認書の画像を見ていた。 その事実が分かった朝、私はコーヒーを半分残したまま、ダイニングの時計を見た。「十五分経ちました」 向かいに座るエイドリアンが言う。「まだ電話しないのか」「あなたが三十分は長いと言ったので、十五分にしたんでしょう」「十五分経った」「質問の順番を確認しています」「叔父に聞くだけだ」「あなたに任せると最初の質問が『なぜ黙っていた』になるからです」「問題があるか?」「あります」「なぜ」「怒っている人が最初に『なぜ』と聞くと、大抵その後の答えを聞かなくなるから」 エイドリアンが不満そうに眉を寄せた。「お前は聞くのか」「私は怒りながら聞く訓練を仕事でしています」「自慢になるのか、それは」「職業技能です」 マーカスが少し離れた位置で、何も聞いていない顔をしている。 私は紙へ書いた五つの質問を見直した。 一、三か月前にVeritas Vaultへアクセスした事実を認めるか。 二、なぜアクセスしたか。 三、サミュエルと同時期にアクセスした理由。 四、何を確認したか。 五、なぜ昨夜その事実を話さなかったか。「これで」「ようやくか」「あなたは最初の五分、黙っていてください」「なぜ私が」「約束してください」「嫌だ」「信用点を下げます」「それを交渉材料にするな」「効いてるじゃないですか」 エイドリアンが黙った。 勝ったと思う。 たぶん。 ◇ ヴィクターは電話にすぐ出た。『朝から二人揃ってとは







